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東京地方裁判所 昭和59年(ワ)14791号 判決

原告

島本則行

右訴訟代理人弁護士

古屋俊雄

古屋倍雄

被告

右代表者法務大臣

田原隆

右訴訟代理人弁護士

今井文雄

右指定代理人

鹿内清三

外三名

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告に対し、金四億一七一八万四六一〇円及び内金五〇〇〇万円に対する昭和六〇年一月五日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1  主文同旨

2  担保を条件とする仮執行免脱宣言

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  当事者の地位

(一) 原告は、肩書地において島本医院の名称で外科、整形外科、内科、皮膚科医院を開業する医師である。

(二) 被告は、国立東京第二病院(被告病院)を設置管理しているものである。

2  診療契約の締結

被告は、昭和五九年四月二四日、原告との間で、原告の腹痛の原因を解明し、治療を行う旨の診療契約を締結した。

3  原告の診療経過

(一) 原告は、昭和五九年四月二三日深夜、原因不明の腹痛を覚え、翌二四日、被告病院において同病院外科医長石山和夫(石山医師)の診察を受け、即日入院した。

(二) 原告は、入院後、心電図・腹部レントゲン検査・胆のう造影検査等の諸検査を受けるなどし、同月二五日以降は、許可を得て外泊しながら、右諸検査を受けた。

(三) 原告は、同年五月九日午前一一時ころ、被告病院外科医長有森正樹(有森医師)による胃内視鏡検査及び胃生検を受けた。右検査施行中、原告が激しい嘔吐反射を示したにもかかわらず、有森医師は研修医桑名友美(桑名医師)に内視鏡を覗かせたり、説明したりしながら検査を続け、胃内壁から出血させるに至り、「出血がひどいので途中で止める。」と言って検査を中止した。

(四) 原告は、右検査終了後帰宅したが、帰宅直後から午後五時ころまでに三回下血(コールタール状の便)があり、血圧も九〇まで低下した。そこで原告は、午後五時ころ、石山医師に電話で症状を連絡したうえ、午後七時ころ被告病院に帰院した。

(五) 原告は、帰院後も午後八時ころまでの間に二回下血し、午後一〇時ころには脈拍が一〇〇を超えて不安感・腹満感・発汗が強まり、さらに翌一〇日午前一時ころには意識も薄らいでショック状態に陥ったが、この間、被告病院当直医綿引洋一(綿引医師)からは何らの措置も講じられず、一〇日午前一時一五分ころに至り、石山医師から酸素吸入を施されたにとどまった。

(六) 一〇日午前三時三〇分ころ、原告は洗面器一杯程の吐血をし、石山医師は、同日午前三時五〇分ころ、原告について胃内洗浄を実施し、止血剤を投与した。

(七) 原告は、一〇日午前六時ころ再び下血し、同日午前一一時三〇分ころ輸血を受け始め、同日、赤血球濃厚液六〇〇cc、凍結人血漿一〇〇〇ccの注入を受けた。

(八) 原告は、同月一四日午前一一時ころ、出血部位の確認のための胃レントゲン検査を受けたが、その際、検査医師から約一〇回も腹部を強く押さえられたため、九日の出血部位から再び出血を来して下血した。このため貧血状態が悪化したことから、輸血が再開され、原告は、同日、翌一五日、一六日、各四〇〇ccずつの赤血球濃厚液の注入を受けた。

(九) 原告は、同年六月一六日、被告病院を退院したが、同月二〇日ころから黄疸が出現し、血液検査の結果では、ZTT・GPT等の肝機能検査値が異常な高値を示していた。そこで、原告は、これを治療するため、同月二五日、自宅近くの青木病院に入院し、同月二九日、被告病院に再入院し、のち同月三〇日、青木病院に戻り、さらに同年七月二日、関東逓信病院に転院し、同病院において同年八月一〇日胆石除去手術を受け、同年九月四日退院した。

(一〇) 原告の肝機能は、その後も改善されないまま慢性肝炎に移行し、平成二年六月一九日、東京都済生会中央病院において肝硬変症(本件疾患)との診断を受けた。

4  本件疾患の原因

原告は、被告病院において輸血を受けるまでは肝機能に異常が見られず、右輸血実施後に黄疸症状が現われ、ZTT・GPT等の肝機能検査値が異常な高値を示すに至ったのであり、被告病院における輸血によって非A非B型肝炎に罹患し、これが慢性化して本件疾患に至ったというべきである。

5  被告の責任

(一) 有森医師の過失

(1) 内視鏡操作を誤って胃内壁を損傷した過失

内視鏡検査を実施する検査医師としては、被検者に激しい嘔吐反射があるときには検査を中止し、また内視鏡を引き抜くときには先端部のアングルの固定機能を解除して静かに引き抜くべき注意義務がある。ところが、被告の履行補助者である有森医師はこれを怠り、激しい嘔吐反射の見られる原告に対して内視鏡検査を続行し、あるいはアングルを固定したまま内視鏡を引き抜いた過失により、原告の胃内壁を損傷し、損傷部位から出血を生じさせて輸血を必要とする状況に陥れ、よって原告に本件疾患を発生させた。

(2) 生検時胃内壁の血管を損傷した過失

生検を実施する検査医師としては、出血しやすい血管部分を避けて検査用の細胞を採取すべき注意義務がある。ところが、有森医師はこれを怠り、血管部分から細胞を採取した過失により、大量の出血を生じさせて輸血を必要とする状況に陥れ、よって原告に本件疾患を発生させた。

(二) 綿引医師の過失

原告には被告病院に帰院するまでに三回もの下血があったのであるから、被告病院医師としては、原告の帰院後、直ちに内視鏡によって出血源を探索し、薬物療法又は内視鏡的治療法による止血措置を講じるべき注意義務がある。ところが、被告の履行補助者の地位にある綿引医師は、これを怠り、何らの措置を講ずることなく原告を放置した過失により、輸血を必要とする貧血状態に陥れ、よって原告に本件疾患を発生させた。

6  損害

(一) 治療費 七三万三七三九円

原告は、本件疾患治療のため、被告病院における治療費として一四万四〇〇〇円、関東逓信病院における治療費として五八万九七三九円を支払った。

(二) 休業損害 一九六四万二六二七円

(算式) 昭和五八年度純収益(三二七四万〇一七九円)−昭和五九年度純収益(一三〇九万七五五二円)=一九六四万二六二七円

(三) 逸失利益 三億七一八〇万八二四四円

原告は本件疾患のため極度の全身倦怠で医師としての仕事ができない状態にあり、右状態は、後遺症五級三号(胸腹部臓器の機能に著しい障害を残し、特に軽易な労務以外の労務に服することができないもの)に該当する。

(算式) 昭和58年度純収益(3274万0179円)×後遺症5級喪失率(0.79)×41歳から67歳までの26年間のライプニッツ係数(14.3751)=3億7180万8244円

(四) 慰謝料 二五〇〇万円

原告は、本件疾患の治療のため、被告病院・青木病院・関東逓信病院における入院治療を余儀なくされ、現在も後遺症五級三号に該当する後遺障害に悩まされているところ、その精神的苦痛を慰謝するためには、入院慰謝料五〇〇万円、後遺症慰謝料二〇〇〇万円の支払を相当とする。

7  よって、原告は、被告に対し、債務不履行による損害賠償として金四億一七一八万四六一〇円及び内金五〇〇〇万円に対する訴状送達の日の翌日である昭和六〇年一月五日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1(一)及び(二)、同2の各事実は認める。

2(一)  請求原因3(一)及び(二)記載の事実は、認める。

石山医師は、昭和五九年四月二六日に実施した胃透視の結果、胃体部後壁に不整陰影が認められ、便潜血反応も陽性であったことから、胃病変の精査を行うため、原告に胃内視鏡検査を実施することにした。

(二)  同(三)中、原告に対する胃内視鏡検査が原告主張の時刻に有森医師によって行われたこと及び桑名医師が右検査に立ち合ったことは認めるが、その余は、否認する。

検査中、原告には極く軽度の嘔吐反射が見られただけで、内視鏡の挿入・操作は円滑・容易であった。有森医師は、病変部分から組織片二個(直径約一ミリメートル)を採取し、出血傾向のないことを確認して内視鏡を抜去した。内視鏡挿入から抜去までに要した時間は約一五分程度であった。

(三)  同(四)中、原告が胃内視鏡検査終了後外出し、同日午後帰院したことは認めるが、外出中の原告の状態は知らず、その余は、否認する(原告の帰院時刻は、午後八時三〇分ころである。)。

(四)  同(五)中、石山医師が原告主張の時刻に酸素吸入を実施したことは認めるが、その余は、否認する。

午後九時ころ、原告に少量の下血が見られたため、綿引医師は、二箇所で静脈路を確保したうえ、止血剤アドナ・トランサミン・ケーワン・ケイツーを投与した。

翌一〇日午前零時四〇分、二〇〇ccの下血があったが、血圧・脈拍は正常で、原告についてショック状態は認められなかった。

同日午前一時一〇分、原告が吐気・胸部不快感・呼吸促進を訴え、看護婦から自宅に連絡を受けた石山医師は、被告病院に出勤して原告を診察し、酸素吸入を開始してニトロール錠を投与し、さらに一時三〇分、二時にも投薬等の措置を行った。

(五)  同(六)の事実は、吐血の量を除き、認める。

原告の吐血量は、約二〇〇ccである。

石山医師は、止血剤としてアドナ及びトランサミンを輸液に加えた。

(六)  同(七)中、原告の下血の事実は否認するが、その余は、認める。

原告の脈拍が一〇日午前中、上昇気味で推移したため、石山医師は、午前一一時三〇分、輸血を開始し、同日赤血球濃厚液六〇〇cc、凍結人血漿一〇〇〇ccを注入したところ、翌一一日の血液検査では貧血状態の改善が見られたので、輸血を打ち切った。

(七)  同(八)中、原告主張のとおり、同年五月一四日原告について胃レントゲン検査を実施したこと、検査後、原告に下血が見られたこと、貧血状態が悪化し、原告に輸血がされたことは認めるが、その余は、否認する。原告の下血の原因は、レントゲン検査にあるのではない。

右検査後下血が見られたため、血液検査を実施したところ、貧血状態であったので、再び輸血を開始したもので、これによって原告の貧血状態は、回復した。

(八)  同(九)及び(一〇)中、原告が原告主張のころ、被告病院に入院した事実及び原告が肝炎に罹患している事実は認めるが、その余は、知らない。

3  同4の主張は争う。

本件疾患は、次の原因によるものであって、被告病院で実施した輸血に起因するものではない。

(一) 原告が元々罹患していたB型肝炎の悪化

原告は外科医であり、B型肝炎ウイルスに感染していた蓋然性が高いうえ、現に昭和五九年五月一日、同年六月九日、同月二三日に実施した血液検査によると、B型肝炎ウイルス感染を示すHBS抗体陽性が確認されている。したがって、原告は輸血以前にB型肝炎に罹患していたのであって、これが悪化して本件疾患に至ったのである。

(二) 原告が元々罹患していたアルコール性肝炎の悪化

原告は、ウイスキーを一日に一びんの三分の二も飲む多飲家であって、輸血以前にアルコール性肝炎に罹患しており、これが悪化して本件疾患に至ったのである。

(三) フローセン麻酔による薬物性肝炎

フローセン麻酔には、肝機能障害をもたらす副作用があり、特に薬物過敏症の患者に対して実施された場合、肝機能障害を招来しやすい。原告は、バルビン液内服後薬疹が現れる既往症があり、薬物過敏症と見られるところ、関東逓信病院において胆のう摘出手術を受けた際、フローセン麻酔を実施されており、これによって本件疾患に陥ったのである。

(四) 開腹手術による肝機能障害

開腹手術後肝機能障害を来す例が見られるところ、原告は関東逓信病院において胆のう摘出手術をうけており、本件疾患は、右手術によるものである。

4  同5(一)のうち、有森医師が被告の履行補助者であることは認めるが、その余は否認し、法律上の主張は争う。

(一) 原告の吐・下血の原因について

胃内容部が排せつされるまでには、通常約一八時間を要するところ、原告は胃内視鏡検査後数時間でタール便を排出しており、下血の原因が胃内視鏡検査時の胃壁損傷にあるとは考えられない。右検査以前に既に原告の便潜血反応が陽性だったことからすると、右下血は、胃以外の十二指腸下部以下の部位からの出血によるものである。また、原告が帰宅及び帰院後吐気を催していたこと、五月一四日に実施した胃レントゲン検査の結果、胃内視鏡検査時には見られなかった陰影が胃噴門部に認められたことからすると、帰院後の吐・下血は嘔吐反射に伴うマロリーワイス症候群によるものと考えるべきである。

(二) 内視鏡操作を誤った過失について

検査実施中、原告には強い嘔吐反射は見られなかったし、検査に使用した内視鏡は超広角直視型の安全な器種であり、内視鏡操作時に胃内壁を損傷することはありえない。

(三) 生検時胃内壁の血管を損傷した過失について

生検時採取した組織片は一ミリメートル程度のもの二個にすぎないし、採取時露出血管のないことを確認し、採取後も出血傾向がないことを確認しており、生検時に胃内壁の血管を損傷したとは考えられない。

5  同5(二)のうち、綿引医師が被告の履行補助者であることは認めるが、その余は否認し、法律上の主張は争う。

原告は帰院時ショック状態にはなく、綿引医師は、五月九日午後九時ころ、止血剤アドナ・トランサミン・ケーワン・ケイツーを混入した輸液の点滴静注を開始しており、同医師には何ら過失はない。

6  同6(一)ないし(四)は、否認する。

第三  証拠〈省略〉

理由

一請求原因1(当事者の地位)及び同2(診療契約の締結)の各事実は、当事者間に争いがない。

二原告の診療経過

〈書証番号略〉、鑑定人渡辺豊の鑑定結果、証人石山和夫及び同有森正樹の各証言、原告本人尋問の結果(一部)並びに弁論の全趣旨によると、次の事実が認められる(ただし、一部に争いのない事実を含む。)。

1  原告の既往歴

原告は、昭和一八年生まれの消化器外科を専攻した外科開業医で、昭和四三年に急性膵炎で入院加療したことがあるほか、同四七年ころに十二指腸潰瘍、同五〇年ころに肝機能障害との診断を受けたが、いずれも格別治療を要するほどではなかった。

なお、昭和五六年五月、同五八年八月に実施した血液検査の結果では、原告はHBS抗原陰性、HBS抗体陽性であった。

2  被告病院入院の経緯

(一)  原告は、昭和五九年三月ころから、隔日の割合で腹痛に悩まされていたところ、同年四月二三日午後一〇時ころ、心窩部(みぞおち)周辺に激しい腹痛を覚えたため、鎮痛剤ブスコパンを静脈注射し、バルピン液を内服した。ところが、腹痛は一向に治まらず、かえって薬疹と思われる発疹が出現したため、翌二四日午前二時ころ、被告病院を救急受診した。被告病院内科当直医高橋医師は、ブスコパンを静脈注射して経過観察したところ、午前八時には発疹が消失し、腹痛も軽快した。そこで原告は、一旦帰宅し、同日午後一二時ころ、改めて被告病院外科を訪れて、右腹痛の原因解明とその治療を依頼した。

(二)  被告病院外科では、外科医長である石山医師と研修医桑名医師とが原告を診察した。原告は、腹部に軽度の鈍痛を訴え、右上腹部に発赤・遍平隆起が認められ、心窩部及び上腹部に圧痛があったものの、黄疸・深腫・皮下出血はなく、肝臓も触知されなかった。そこで石山医師は、胆のう炎・膵炎・胃潰瘍等の疑いがあると考え、入院のうえ諸検査を実施することにした。

(三)  石山医師は、入院後、原告に対し、血液・尿・便検査を行ったほか、四月二五日には心電図・腹部レントゲン・SRLアミラーゼアイソザイム、同月二六日には胃透視、五月七日には胆道造影・血糖検査を実施した。四月二四日に実施した血液検査の結果では、LAP・γ―GTPがやや高めだったものの、肝機能障害が問題となるほどではなく、血中アミラーゼ値も正常で、SRLアミラーゼアイソザイム・血糖検査でも異常は発見されず、膵炎を疑わせる所見は見当たらなかった。しかしながら、四月二六日に実施した胃透視の結果によると、十二指腸球部に十二指腸潰瘍瘢痕と思われる変形があったほか、胃角上部小弯に不整が認められ、五月七日に実施した胆道造影の結果によると、胆のうの中心部分に胆のう炎あるいは胆石を疑わせる狭窄が認められた。また、便検査の結果によると、便潜血反応は陽性であった。

原告は、四月二四日午後には腹痛が軽快したため、翌二五日午後から五月六日までは自宅に戻り、検査時だけ被告病院に帰院していた。

3  胃内視鏡検査・胃生検時の状況

(一)  石山医師は、胃透視の結果、胃角上部小弯に不整が見られたことから、胃内視鏡により右部位を詳しく検査することとし、被告病院外科医長で日本消化器内視鏡学会認定指導医の資格を持つ有森医師に内視鏡検査を依頼した。

(二)  原告は、五月九日午前一一時ころから内視鏡検査を受けた。右検査を担当した有森医師は、検査に先立ち、四月二四日に実施された血液検査の結果から原告の血液凝固能に異常がないことを確認したうえ、胃液・唾液の分泌及び消化管の運動を抑制するためにセスデン二本を注射し、嘔吐反射を抑制するために粘膜麻酔剤二パーセントキシロカインビスカス一〇cc、消泡剤二パーセントガスコンドロップ五ccを経口投与した。

有森医師は、右処置の後、原告に左側臥位を取らせ、オリンパス製直視型ガストロファイバースコープGIF―QW型を口腔に挿入して食道に進め、食道部位の写真を撮影した後、さらに胃噴門部、胃体部、幽門部を順次観察しながら十二指腸球部までスコープ先端を進めた。そしてスコープ先端を一旦十二指腸球部に到達させた後、今度はスコープを引き抜きながら、順次十二指腸球部、幽門部、胃角部、胃体部、噴門部の順序で写真を撮影した。

(三)  有森医師は、胃角上部小弯に潰瘍瘢痕と思われる小さな変形発赤部位を発見し、右部位の写真を撮影した後、スコープ先端の鉗子口に鉗子を装着し、右部位から一ないし二ミリメートル程度の組織片を二個採取した。右採取の際、採取部位に血管は認められず、採取後は生検時普通に見られる僅かな出血があっただけで、格別通常と異なる出血傾向は認められなかった。

(四)  原告には、右胃角上部小弯の変形部位のほかには全く異常がなく、食道動脈瘤等の怒張した血管も認められなかった。また、右検査中、内視鏡検査時にはごく普通に見られる程度の嘔吐反射があったものの、原告の嘔吐反射は格別通常と異なる激しいものではなかった。この間有森医師がスコープの操作に支障を来したり、スコープ先端位置を見失ったりすることもなく、検査は、ごく順調に行われた。

なお、有森医師は、右検査の際、スコープ先端を固定する機構を働かせてアングル(角度)を固定したことはなかった。また、右検査には桑名医師が立ち会ったが、同医師は、スコープの操作には無関係な供覧用の附属器具によって観察していたにすぎず、スコープの操作には全く関与しなかった。

(五)  有森医師は、採取した組織片について、被告病院の病理科に病理検査を依頼し、五月一二日、石山医師にその結果が報告された。右検査結果によると、病理組織学的には中等度の慢性胃炎の所見を示し、胃の粘膜は萎縮性でも過形成性でもないとされた。

4  吐・下血の経緯

(一)  原告は、内視鏡検査終了後病室に戻ったが、特に異常がなかったため、正午ころ帰宅した。ところが、午後二時ころ及び午後四時三〇分ころに下血し、原告は、午後六時ころ、石山医師に右下血の状況を電話連絡したうえ、帰院を勧める同医師の助言に従い、午後七時ころ被告病院に戻った。帰院後、原告に下血はなく、原告は、病室において安静を保っていて、午後八時三〇分ころに至り初めて、看護婦に対し、外出中(帰院前)の下血の状況を報告した。なお、石山医師は、原告に異常があるときは連絡するように看護婦に指示したうえ、勤務時間の終了後、原告が帰院する前に帰宅した。

(二)  看護婦は、午後八時三〇分ころ、原告から右二回の下血の事実と、血圧が八〇まで下がったことについて報告を受けたが、そのころの原告の脈拍は一〇〇、血圧は一三二/八〇でいずれも正常であった。なお、その際、原告は、吐気を訴えたものの、その他には格別異常は見られなかった。

(三)  午後九時ころ、原告から少量の下血を生じた事実を告げられ、当直看護婦は、帰宅していた石山医師に電話連絡し、同医師から、当直医に経過を報告してその診察を仰ぐようにとの指示を受けた。当直医の綿引医師は、右看護婦から経過報告を受けたうえ、原告を診察し、静脈路を確保するため左上肢にサーフロー針を挿入して糖質・電解質輸液ラクテックGの点滴静注を開始するとともに看護婦に対し、バイタルサインを頻回に計測するよう指示した。

(四)  看護婦が午後一〇時に原告を観察した際、原告は腹満感があって苦しいと訴えていたが、血圧は一二〇/七〇、脈拍は九六で格別異常は見られなかった。

(五)  翌一〇日午前零時四〇分、原告は二〇〇グラムのタール便を排出し、軽度の下腹部痛のある状態であったものの、血圧は一二〇/八〇、脈拍は七八と正常であった。看護婦は、腹部を氷枕で冷やす措置を講じたうえ、電話により石山医師に経過を報告した。石山医師は、右報告を受け、午前一時ころ、出勤した。

(六)  午前一時一〇分、ナースコールで看護婦を呼んだ際の原告の血圧は一二二/八〇、脈拍は八〇と正常で、不整脈も認められなかったが、原告は、胸部不快を訴えていた。看護婦から報告を受けた石山医師は、原告を診察し、胸部が重苦しいとの訴えがあり、呼吸困難な様子であったため、直ちに酸素吸入を開始したうえ、心臓保護の目的でニトロールを一錠舌下投与し、ペルサンチン一アンプルを輸液に混入して点滴静注した。さらに同医師は、腹部膨隆を認めたものの、ほかには格別異常は認めなかったが、原告が腹痛・腹満感を訴え、やや興奮気味であったため、鎮痛剤コリオパン一アンプルを点滴静注するとともに鎮静剤フェノバール一アンプルを静脈注射する措置を採り、一旦退室した。

ところが、原告の腹痛は消失せず、何度もナースコールして石山医師を呼んで欲しいと訴えたため、午前二時、同医師は、再び原告を診察した。その際にも、原告の血圧は一二二/八〇で変化は見られなかったが、同医師は、原告の腹痛が胆道造影の際に発見された胆のう狭窄部位に由来する可能性もあると考え、コリオパン一アンプルを輸液に追加混入し、鎮痛剤ソセゴン、鎮静剤アタラックスPを静脈注射した。

(七)  午前三時二〇分、原告は、約一〇ccの血液を吐瀉するとともに、看護婦に対し、吐気・腹痛を訴えた。その際、腹鳴が見られたが、血圧は一一八/八二、脈拍は九六と正常であった。この報告を受けた石山医師は、看護婦に対し、心窩部を氷のうで冷やしてしばらく様子を見るよう指示した。

午前三時三〇分、原告が二〇〇cc吐血し、看護婦に対し腹痛・腹満感があり、吐気が持続していて目がくらくらすると訴えた。右吐血後の血圧は一〇二/七八、脈拍は九六と格別変化はなく、緊張状態も良好であった。この報告を受けて石山医師が診察したところによると、吐瀉された血液はコアグラ様に凝固しかかっていて、胃からの出血が疑われたため、同医師は、午前三時五〇分、カテーテルを挿入して生理食塩水で胃内部を洗浄したところ、暗赤色の排液があり、胃から出血していることが確認された。石山医師は、出血量を把握するためにカテーテルを胃に挿入したまま先端を水中に留置し、止血剤アドナ一アンプルを点滴静注し、経過観察した。

右処置の後も、原告には腹痛があり、その脈拍は一二〇と多めだったが、血圧は一〇八/七〇と正常で、出血性ショックの症状は認められなかった。

(八)  原告は、午前五時一五分にも八〇ccの血液を吐瀉し、「このままでは血圧が下がってしまう。内視鏡で引っかけたことはわかっている。」と訴えた。石山医師は、診察し、血圧は一〇二/七二と正常で、出血性ショックの心配もなかったため、原告を落ち着かせ、経過観察を続けた。

(九)  原告は、午前六時、一〇〇グラムのタール便を排出し、依然吐気・腹満感を訴え、心窩部には圧痛を覚える状態であったが、胸部不快感は治まり、腹痛も軽減しつつあった。原告は目がかすんでいると訴えていて、顔色も不良で貧血傾向がうかがえたが、意識は明瞭で、血圧は一一二/八四、脈拍は一二〇と変化なく、ショックの心配は認められなかったので、石山医師は、引き続き経過を観察することにした。

(一〇)  その後一〇日午前中には、原告は、吐・下血が見られず、血圧も午前九時三八分に一三〇/八八、一〇時四〇分に一二〇/八八、一一時三〇分に一二〇/八〇と安定していたものの、右各時点の脈拍は一四八、一三六、一二〇で、頻脈傾向が続いた。また、血液検査によると、赤血球が3.60(正常値5.4プラスマイナス0.7)、ヘモグロビンが11.1(正常値一六プラスマイナス二)、ヘマトクリットが33.6(正常値四七プラスマイナス五)と貧血状態を示し、心電図でも心筋虚血との結果が出て、顔面蒼白・めまい・全身倦怠の症状が出現したことから、石山医師は、午前一一時三〇分、赤血球濃厚液の輸血を開始し、輸液にアドナのほか、止血効果のあるトランサミンS、トラジロール、ケーワン、ケイツーを混入した。

また、同医師は、正午に再度胃内洗浄を実施したが、凝血塊しか吸出されず、新たな出血はないものと判断した。

(二) 石山医師は、五月一〇日午後九時ころまでに赤血球濃厚液六〇〇cc、凍結人血漿一〇〇〇ccを輸血し、止血剤アドナ・トランサミンS・トラジロール・ケーワン・ケイツーを混入した輸液の点滴静注を継続した。

原告については、五月一〇日午後四時に二〇〇グラムのタール便が見られたのを最後に吐・下血は見られず、胃に留置したカテーテルからも血液は吸引されなかったし、五月一一日に実施された血液検査によると、赤血球が3.74、ヘモグロビンが11.6、ヘマトクリットが34.5と前日の検査結果と比べて貧血状態にやや改善のきざしも見えたことから、同医師は輸血を打ち切り、右止血剤入りの輸液を点滴静注しながら経過を観察することにした。

(三) 原告の吐気・腹痛は、五月一〇日午後には治まり、血圧も終始安定していたが、脈拍は、翌一一日午後九時ころまでやや頻脈気味の傾向にあって、顔色は一三日になっても優れなかった。

なお、原告には、五月一〇日午後四時の排便以降、一度も便通がなかった。

5  胃透視検査後の状況等

(一)  五月一〇日下血を最後に原告に吐・下血は認められず、血圧・脈拍も安定していたことから、石山医師は、出血原因の把握のため、五月一四日午前一一時ころ、造影剤ガストログラフィンを用いて原告の胃透視検査を実施した。

その結果、原告の胃の小弯側の噴門部直下に、四月二六日の胃透視、五月九日の胃内視鏡検査の際には認められなかった胃壁組織の欠損を示すニッシェ様陰影が認められた。

(二)  原告は、胃透視検査後少量のタール便を、続いて午後一二時一五分、約三〇〇グラムのタール便を排出した。血液検査を実施したところ、赤血球が2.88、ヘモグロビンが0.91、ヘマトクリットが27.1と顕著な貧血状態を示していたため、石山医師は、原告に対する赤血球濃厚液の輸血を再開し、輸液中に止血剤アドナ・トランサミンSを加えて点滴静注した。

(三)  原告は、さらに午後一時五〇分に約二〇〇ミリグラム、三時四〇分に約二〇〇グラム、六時に約八〇グラムのタール便を排出した。この間、原告は倦怠感を訴えたが、吐気・腹痛はなく、血圧・脈拍ともに全く正常で、顔色も良好であった。

(四)  原告が五月一五日、一六日にもごく少量のタール便を排出したため、石山医師は、輸血を続け、赤血球濃厚液を四〇〇ccずつ、三日間で合計一二〇〇cc投与した。この間、原告は、倦怠感を訴えていたものの、吐気・腹痛はなく、血圧・脈拍にも異常は見られなかった。

(五)  石山医師は、原告について、五月一七日以降は中心静脈栄養法によって全身状態の回復を図りながら経過観察を続けたところ、一九日に実施した血液検査の結果では貧血状態が完全に回復していた。そこで原告は、五月二六日以降は自宅に戻り、六月一六日、退院した。

6  被告病院退院後の状況

(一)  原告は、六月二〇日ころから全身に倦怠感を感じ、尿が真黄色でビリルビン尿様を呈しているのに気づき、六月二三日に血液検査を実施したところ、総ビリルビン3.3、直接ビリルビン2.3、TTT4.7、ZTT9.0、GOT一二三六、GPT一四〇〇、LDH一五二八、LAP八七、γ―GTP五五七、ALP21.5と著しい異常値を示した。

原告は、自宅近くの青木病院に入院して被告病院に空床ができるのを待ったが、青木病院において六月二五日、二八日に実施した血液検査の結果でも、正常値と比べてGOTが3.40倍、GPTが六五ないし八〇倍、LDHが二、三倍、γ―GTPが一、二〇倍もの高値を示す等、明らかな異常が認められた。

(二)  原告は、六月二九日、被告病院に再入院して石山医師の診察を受けた。原告は、全身倦怠感を訴えていて、皮膚黄染・眼球黄染が認められ、触診によって肝臓を触知し、圧痛もあった。また、同日実施した血液検査の結果も、総ビリルビン16.9、直接ビリルビン4.2、ZTT6.9、GOT五九六、GPT八八一、LDH五七〇、LAP五一八、γ―GTP二二〇と顕著な異常を示していて、肝炎に罹患しているものと診断された。

(三)  原告は、被告病院の治療方針等に不満を持ったことから六月三〇日に青木病院に戻り、さらに七月二日、関東逓信病院に入院した。その際実施された血液検査の結果でも、正常値と比べてGOTが六倍、GPTが八倍、γ―GTPが八倍の高値を示しており、急性肝炎に罹患しているとの診断を受けた。

(四)  原告は、関東逓信病院において、七月一七日、胃内視鏡検査を受けた。その結果によると、胃角上部に慢性萎縮性胃炎を疑わせる変形が見られ、十二指腸球部にも潰瘍瘢痕が認められたものの、食道や噴門部周辺には異常は見られなかった。

(五)  その後、原告は、胆のう腫瘍・胆石症の疑いがあると診断され、肝機能がほぼ正常値まで回復するのを待って、八月二〇日、胆のう切除手術を受けた。右手術に際し、新鮮血二〇〇〇ミリリットルが輸血され、硬膜外麻酔・一般麻酔・レスピレーターを併用した麻酔法が採られたが、フローセンは麻酔導入時に少量使用されたにすぎなかった。

(六)  手術後の血液検査の結果では、再びGOT・GPT・LDH・γ―GTP等の上昇が見られたが、八月三〇日には改善傾向が見られたため、原告は、九月三日、退院した。

(七)  退院後も、原告は、青木病院・村上病院・東京都済生会中央病院等で肝炎の治療を受けたが、肝機能の上昇と下降を繰り返す状態が続いていて、平成二年六月一九日には、東京都済生会中央病院において本件疾患との診断を受けた。

7(一)  右3で確認した事実(原告に対する内視鏡検査の実施)に関し、原告本人尋問の結果中には、内視鏡検査時、原告には激しい嘔吐反射があり、有森医師が桑名医師に対して「出血がひどいので中止しよう。」と言った旨の供述部分が存在するが、前掲各証拠に照らし、右供述部分は信用することができない。

(二)  右4(一)で認定した事実(五月九日、原告が帰宅し、のち下血を生じて帰院した前後の事情)に関し、原告本人尋問の結果中には、帰宅後被告病院に戻るまでの間に三回、合計六〇〇ないし八〇〇ccの下血があって、血圧が九〇/六〇まで下がった旨の供述部分がある。しかしながら、前掲〈書証番号略〉(看護記録)には、午後二時と四時三〇分に下血があったとの報告を受けた旨の記載があるにとどまることに照らし、下血回数に関する右供述部分をそのまま信用することはできない。また、右4で認定したとおり、原告は下血後もすぐに帰院することなく、午後七時になってようやく帰院していること、帰院後の血圧の推移を見ても、終始正常値を示していて、低血圧に陥ったことは一度もなかったことからすると、下血の量及び血圧に関する右供述部分も信用することができない。そして、原告の帰院後、午後八時三〇分ころまでの間に、原告が新たに下血をしたこと及びその事実を看護婦に伝えたことについては、これに一部沿う原告本人尋問の結果があるものの、看護婦は、午後九時ころ、石山医師の帰宅前の指示に従って原告の状態について連絡して指示を求めたこと(前記4(三)参照)と対比すると、採用することができず、他に原告主張の右事実を認めるに足りる証拠はない。さらに、原告本人尋問の結果中には、帰院後、午後八時三〇分ころまでの間に、原告が看護婦に対し、外出中の下血の状況を報告したとの趣旨に解しえなくもない部分が存在するが、右供述部分は、報告の時期及びその具体的内容に関して曖昧かつ不明確であるうえ、前掲〈書証番号略〉(看護記録)には、午後八時三〇分ころ、看護婦が原告から外出中の下血の状況について午後二時と午後四時三〇分の二回と回数を特定して報告を受けた旨の記載があることに照らし、右供述部分を信用することはできない。

(三)  次に、右4(三)で認定した事実(五月九日午後九時ころの当直医による処置等)に関し、原告は当直医から点滴静注を受けたことはないと主張し、被告は当直医が午後九時ころ、静脈路を確保したうえ、止血剤アドナ・トランサミンS・ケーワン・ケイツーをも投与した旨主張する。この点に関しては、前掲〈書証番号略〉(看護記録)末尾の「下位目標」欄に、五月九日に左上肢サーフロー針挿入を実施したとの記載があること、証人石山和夫の証言及び原告本人尋問の結果中には、午後九時ころ当直医が点滴を開始した旨の供述部分があることからすると、同時刻ころ当直医が左上肢において点滴静注を開始した事実を認めることはできるが、止血剤を投与したことについては、本件全証拠によっても、これを認めるには足りないといわざるをえない(〈書証番号略〉には、五月九日に止血剤の投与をしたことを前提とする記載があるが、前記認定のとおり、原告に対しては、前同日深夜から翌一〇日まで、経過観察がされるとともに、夜間にしては頻繁に診察や薬剤の投与がされ、一〇日午前には、止血剤が投与されているのであり、右書証によっては、被告主張の時刻ころに止血剤が投与された事実を認めるには足りない。)。

(四)  また、右4(四)の事実(五月九日午後一〇時ころの原告の状態)に関し、原告本人尋問の結果中には、五月一〇日午前一時までに何度も下血があったとの供述部分があるが、前掲各証拠に照らし、右供述部分は信用することができない。

三肝炎に関する医学上の一般的知見

〈書証番号略〉、鑑定人渡辺純夫の鑑定結果並びに弁論の全趣旨によると、次の事実が認められる。

1  肝障害の原因

肝障害の原因としては、肝炎ウイルス及びそれ以外のウイルス(サイトメガロウイルス・単純疱診ウイルス等)の感染、アルコール摂取(アルコール性肝炎)、薬剤摂取(薬物性肝炎)等が挙げられるが、肝炎ウイルス感染による肝障害(ウイルス性肝炎)が圧倒的に多い。

2  ウイルス性肝炎の種類

(一)  現在、肝炎ウイルスのうち、A型、B型およびC型のウイルスが分離・同定されており、その感染による肝炎が、それぞれA型肝炎、B型肝炎、C型肝炎と呼ばれている。C型ウイルスが分離・同定されたのはごく最近で、昭和五九年当時には未だ分離・同定されるに至っていなかったため、A型ウイルス及びB型ウイルス以外の肝炎ウイルスによる肝炎を総称して、非A非B型肝炎と呼んでいた。非A非B肝炎のうち、C型肝炎は約七五パーセント程度で、残りの約二五パーセントについては、現在でも、その原因であるウイルスの分離・同定に成功していない。

(二)  A型肝炎は、糞―口感染するため、流行発生することが多い。感染すると、血中にHA抗体が出現するので、この存在によって他のウイルス性肝炎と鑑別しうる。

(三)  B型ウイルスは、血液を介して感染するが、感染によって直ちにB型肝炎が発症するわけではなく、発症には感染者の免疫機序が関与していると考えられている。B型肝炎は、一過性感染と持続性感染とに大別され、前者の場合には、二ないし四か月で治癒するのが普通であって、慢性化することは殆どない。後者の場合には、慢性肝炎に移行し、肝硬変に進展することもあるが、その大部分は、出生時ないしは新生時期における母児感染例である。

B型ウイルスに感染すると、血中にはHBS抗原が出現するが、一過性感染の場合には発症後数か月で消失し、代わってB型ウイルスの中和抗体であるHBS抗体が出現して、B型肝炎ウイルスに対する免疫が獲得される。

(四)  非A非B型肝炎も、B型肝炎と同様に血液感染するが、昭和五九年当時、その原因となるウイルスが全く分離・同定されていなかったため、他の肝炎の除外診断によって判断するしかなかった。非A非B型肝炎は、慢性肝炎に移行する割合が高く、この場合には、肝機能の上昇と下降を繰り返す特徴が見られる。

3  輸血後肝炎

(一)  我国においては、輸血例の八ないし一五パーセントにウイルス性肝炎が発生しており、輸血後肝炎と呼ばれている。輸血後肝炎の約九三パーセントは非A非B型肝炎で、残りはB型肝炎である。平成元年一一月からは、献血血液に対するC型ウイルス感染検査が実施されるようになったが、昭和五九年当時には、同ウイルスが分離・同定されていなかったため、非A非B型肝炎の発生を防止することは不可能であったし、当時のB型ウイルス感染検査法では、感染血を完全に排除するまでには至っていなかったことから、輸血後肝炎を未然に防ぐ方法はなかった。

(二)  輸血後肝炎の症侯は、非A非B型・B型ともほぼ同様であって、発症約一ないし二週間前から全身倦怠感・肝臓の腫大と圧痛・濃厚尿等の症状が出現し、さらに黄疸も現われる。また、血液検査の結果では、ビリルビン・TTT・GOT・GPT・γ―GTP等の上昇が見られる。

四本件疾患の原因

1 前記二及び三で認定した事実に、前記三冒頭掲記の各証拠を併せ考えると、次のとおり認定判断することができる。

(一)  昭和五九年四月二四日に被告病院に入院した時点では、原告には黄疸・深腫・肝臓腫大はなく、血液検査の結果でも肝機能障害は認められなかったにもかかわらず、輸血の六週間後ころから全身倦怠感・真黄尿・黄疸・肝臓の腫大及び圧痛等の症状が現われ、血液検査の結果でも、ビリルビン・ZTT・GOT・GPT・LDH・LAP・γ―GTPが著しい高値を示していたことからすると、原告は被告病院で実施された輸血によって輸血後肝炎に罹患したものと推認すべきである。

(二)  そして輸血後肝炎の約九三パーセントが非A非B型肝炎であって、非A非B型肝炎は慢性肝炎に移行することが多く、肝機能の上昇と下降を繰り返す特徴を有するところ、右輸血後原告の肝機能は上昇と下降を繰り返しながら本件疾患に至っていることからすると、原告の罹患した輸血後肝炎は、非A非B型肝炎であって、これが慢性化して本件疾患に至ったものと推認することができる。

2  被告は、原告が輸血前既に罹患していたB型肝炎又はアルコール性肝炎の慢性化、あるいは関東逓信病院における開腹手術又はその際実施されたフローセン麻酔が本件疾患の原因である旨主張するので、この点について検討する。

(一)  B型肝炎について

確かに、原告は、昭和五〇年ころ、肝機能障害との診断を受けていて、被告病院における輸血以前の時点で既にHBS抗体陽性であったことからすると、原告には右輸血以前にB型ウイルスに感染した経験があると考えられる。しかしながら、B型ウイルスに感染しても、一過性感染の場合には数か月で治癒して、慢性化することは殆んどなく、昭和五〇年に診断された右肝機能障害は、治療を要するほどのものでもなく、その後原告の肝機能に格別異常が見られた形跡もないうえ、輸血前既に原告はHBS抗原陰性、HBS抗体陽性であったことからすると、原告のB型肝炎は、一過性感染であって、既に治癒していたものと認められる。この点に関する被告の主張は、採用することができない。

(二)  アルコール性肝炎について

前記二冒頭掲記の各証拠によると、原告には輸血前にアルコール多飲の傾向があったことが認められるけれども、本件全証拠によっても原告がアルコール性肝炎に罹患していたことを認めることはできないから、この点に関する被告の主張も採用することができない。

(三)  フローセン麻酔について

前掲〈書証番号略〉並びに鑑定人渡辺純夫の鑑定の結果によると、フローセン麻酔によって肝障害が発生するとの研究報告が存在することが認められる。しかしながら、〈書証番号略〉では、フローセン麻酔と肝障害の関係については、医学上の見解が対立していて、結論を見るには至っていないとしているし、現に〈書証番号略〉(文献)は、フローセン麻酔と肝障害の関係について否定的研究報告を登載しているのであるから、フローセン麻酔が肝障害の原因になるとの医学上の見解が確立しているものとは到底いいがたい。そうすると、この点に関する被告の主張は、その前提を欠き、採用することができない。

(四)  開腹手術について

前掲〈書証番号略〉によると、手術後肝機能に異常が認められる症例が存在することが認められるところ、前記二6(六)認定のとおり、関東逓信病院における手術後、原告のGOT・GPT・LDH・γ―GTP等が上昇したことからすると、右手術によって、原告は、肝機能に異常を来したものと認められる。しかしながら、〈書証番号略〉によれば、手術による肝機能異常の大部分は軽症で、しかも一週間以内に正常化する一過性のものであるとされているところ、前記二6(六)で認定したとおり、手術一〇日後には原告の肝機能は改善傾向を示しているのであるから、手術による原告の肝機能障害は、一過性のものであると認められる。したがって、本件疾患の原因が右手術にあるとする被告の主張も、採用することができない。

五被告の責任

1  有森医師の過失

原告は、前記のとおり、有森医師につき、内視鏡による検査中、激しい嘔吐反射の見られる原告に対して内視鏡検査を続行し、若しくは内視鏡先端部のアングルを固定したまま内視鏡を引き抜いて原告の胃内壁を損傷し、又は血管部分から細胞を採取した過失により、出血を生じさせたと主張するので、以下この点について判断する。

(一)  吐・下血の意義とその原因、胃内視鏡検査、胃生検及びマロリーワイス症候群に関する医学上の一般的知見

〈書証番号略〉、鑑定人渡辺豊の鑑定結果、証人石山和夫及び同有森正樹の各証言並びに弁論の全趣旨によると、次の事実が認められる。

(1) 吐・下血の意義とその原因

吐血とは、消化管出血のうちで口から排出される場合をいい、下血とは、肛門から排出される場合をいう。

吐血は、トレイツ靱帯よりも口側の上部消化管、即ち食道・胃・十二指腸から出血した場合に認められる。血液は、胃液に触れると化学変化を起こしてコーヒー残渣様になり、出血後一五ないし二〇分程で凝固してコアグラ様になることから、吐血が鮮紅色を呈している場合には、食道からの出血であるか、大量の出血であると考えられる。

他方、下血は、下部消化管からの出血ばかりでなく、上部消化管からの出血に際しても認められる。血液は、腸管を通過中に化学変化を起こして黒色化するため、下血は、出血源が消化管の下方である場合には鮮紅色を呈し、上部消化管である場合にはタール便と呼ばれる黒色便になる傾向にある。したがって、下血の色調によって出血部位をある程度推測することが可能であるが、下血の色調は、出血場所だけでなく、出血量や腸管通過時間によっても左右されるので、色調のみで出血部位を確定するのは困難である。一般に、胃から出血した場合には、一〇ないし一五時間でタール便が見られるが、腸管通過時間は腸の蠕動運動の状況等によって異なり、蠕動運動が活発な場合には四、五時間で下血を見ることもある。

消化管出血の原因となる疾患は多岐にわたるが、中でも胃・十二指腸潰瘍、食道動脈瘤、胃炎、マロリーワイス症候群、胃癌、大腸癌、潰瘍性大腸炎、大腸憩室炎等によることが多く、これら疾病によるもののほか、消化器内視鏡検査や生検時における偶発症として発生することもある。

(2) 胃内視鏡検査

(イ) 胃内視鏡検査の意義

胃内視鏡検査は、胃内部を観察・撮影する方法として考案され、一九六〇年代に国産のファイバースコープの研究開発が進められたことから、広く一般に普及し、昭和五九年当時には既に胃疾患の診断のため臨床医学上、日常的に採用される検査法となっていた。

胃内視鏡には、側視型ファイバースコープと直視型パンエンドスコープとがあるが、直視型パンエンドスコープは一回の検査で食道・胃・十二指腸を観察できるうえ、細径で患者の苦痛も少ないことから、近年その普及が著しく、視野角が広く、管径の細い機種も開発され、生検機構を備えたものも多い。

(ロ) 胃内視鏡検査の偶発症

内視鏡検査に伴う偶発症としては、穿孔・出血・裂創・気腫等があり、旭川医科大学並木正義医師が一九七七年から一九八二年までの我国における消化器内視鏡に関する偶発症を集計した結果によると、消化管内視鏡施行例に占める偶発症の発生頻度は0.022パーセントであって、偶発症の内容としては、出血と穿孔が多い。

しかしながら、上部消化管内視鏡は、下部消化管内視鏡と比較するとはるかに操作が容易であって、単に内視鏡が胃内壁にぶつかったくらいでは、大きな損傷が生ずることもまずないことから、上部消化管内視鏡の偶発症発生頻度は、下部消化管内視鏡の場合よりもはるかに低く、僅か0.009パーセントにすぎない。

上部消化管内視鏡の中でも直視型パンエンドスコープ施行例における偶発症の発生頻度は、さらに低く、僅か0.007パーセントにすぎない。これは、側視型ファイバースコープの場合には、胃が十分拡張していなければ視野を得にくく、先端硬性部が長大であるため操作しにくいことに加え、生検を行う際、生検鉗子を引き起こすための機構を操作しなければならない関係上、アングルを固定することが多く、生検後アングル解放を忘れたり、生検鉗子を引き起こしたまま抜去しようとしたりして、粘膜を損傷するおそれがあるのに対し、直視型パンエンドスコープの場合には、胃の拡張が不十分でも視野を得ることができるうえ、生検鉗子引き起こし機構が存在しないため、生検の際アングルを固定することもなく、したがって固定したアングルや生検鉗子によって、粘膜を損傷するおそれもないことによる。

(3) 胃生検

(イ) 胃生検の意義

胃生検とは、胃の組織を生検鉗子によって採取し、病理組織学的、電顕的、生化学的に検索して診断及び経過予後の判定に用いる検査方法である。胃生検時に採取される組織片の数は、病変の状態によってまちまちで、大きな病変の場合には、一〇個以上の組織片を採取することも珍しくない。

(ロ) 胃生検の偶発症

胃生検に伴う偶発症としては、出血・穿孔・顎関節脱臼等があり、前記(3)(ロ)の並木医師の集計によると、その発生頻度は0.008パーセントの極めて僅かであるが、その中では出血の占める割合が比較的高い。

元来、胃生検は、生検鉗子によって胃粘膜から組織を採取する検査であるため、必ず出血を伴う。しかしながら、生検鉗子によって生じる胃粘膜の傷は、せいぜい直径二、三ミリメートル、深さもせいぜい粘膜前層までで、検査後二、三日もすると肉眼でもその跡を発見することが不可能となるくらい浅小なものであるため、生検部位からの出血量は、通常二、三ミリリットルから一〇ミリリットル程度にしかならない。肉眼で下血を認めうるのは、二〇〇ミリリットル以上の出血がある場合であり、胃生検に伴う偶発症としての出血が問題となるのは、右以上の大量の出血が生じた場合に限られる。

出血量は、出血源となる血管の太さと関係し、太い血管からの出血である程、多量となるが、胃内部においては、血管は粘膜下層にあり、粘膜表面には毛細血管が分布しているだけで、太い血管は殆んど走っていない。特に潰瘍瘢痕部位には殆んど血管がないうえ、瘢痕部は、結合組織が増殖し、その上を薄い粘膜が覆っていて、硬くなっているため、生検鉗子が深く入ることもないことから、潰瘍瘢痕部からの生検で大量の出血を来すことは極めて稀である。

(4) マロリーワイス症候群

(イ) マロリーワイス症候群の意義

マロリーワイス症候群とは、嘔吐等により腹腔内圧が急激に上昇し、胃の噴門部近傍に裂創が発生し、これを出血源として顕出血を来す例をいう。裂創発生のメカニズムは詳らかになっていないが、一般に嘔吐反射の際、胃内圧が上昇するのに対し、食道内圧が低いことから、食道と胃の接合する噴門部付近に一時的に強力な内圧が加わり、裂創が形成されるものと考えられている。以前は、過度のアルコール摂取が本症発生と関連していると考えられていたが、今日では、飲酒に伴う嘔吐に限らず、妊娠悪阻による嘔吐・急性胆のう炎その他の原因による嘔吐の他、咳嗽・くしゃみ、吃逆・喘息発作・排便時のきばり等・嘔吐を伴わない場合であっても、およそ腹腔内圧の上昇を来す機転が働く場合には、本症が発生する可能性があるものとされている。

マロリーワイス症候群の発生頻度については、病変確認の方法や出血後診断までに要した時間等の諸条件が異なるため、報告によってかなりばらつきがあるが、上部消化管出血の三ないし五パーセント(報告によっては2.7ないし14.7パーセント)を占めているといわれている。また、出血源不明の上部消化管出血は本症に由来する可能性が高く、統計上出血源不明として処理されているものを勘案すると、上部消化管出血の原因として本症が占める割合はかなり高いと考えられている。

(ロ) マロリーワイス症候群の症状

悪心・嘔吐に引き続いて突然吐血し、心窩部痛や胸やけ等の症状を伴うことが多い。しかしながら、嘔吐反射が発生して、噴門部付近に裂創が形成されても、裂創が浅小で出血量が少ない場合には、吐血とならず、胃内部に血液が貯留して下血として排出されることが多い。

(ハ) マロリーワイス症候群の診断

マロリーワイス症候群による裂創は、噴門部近傍の多くは小弯側に長軸方向に一ないし数本走るのが特徴で、一般に傷は浅く、断裂の多くは粘膜下層まで、深くともせいぜいその直下の筋肉層までしか達しない。

マロリーワイス症候群は、右のような特有の裂創を伴うので、内視鏡によって右裂創を確認した場合には、本症による出血と診断できる。また、本症による裂創は浅いことから、レントゲン検査での描出は困難とされてきたが、レントゲン検査技術の向上により、レントゲン検査で右裂創が描出される例も多くなり、昭和五四年には本症のレントゲン診断に関する臨床放射線医の研究報告も発表されている。

(ニ) マロリーワイス症候群の治療と予後

マロリーワイス症候群に対しては、他の原因による上部消化管出血に対すると同様の治療が行われる。マロリーワイス症候群による裂創は浅いため、治癒が早く、二週間程で傷口がふさがり、その後一か月も経つと、レントゲン検査でも内視鏡検査でも、傷跡を捜すのは極めて困難となる。

(二)  原告の出血原因

(1) 原告について、昭和五九年五月九日午後二時ころに最初の下血があり、その後翌一〇日午前零時四〇分にタール便、午前三時二〇分には吐血も見られ、午前三時五〇分に石山医師が胃を洗浄した際、暗赤色の排液を認めて胃からの出血が確認されている(前記二参照)ことからすると、これら一連の吐・下血は、胃からの出血に由来するものと認められる。そして、最初の下血が胃内視鏡・胃生検実施後約三時間程で生じたことをも考慮すると、右出血の原因は、原告主張のとおり、胃内視鏡検査時の胃内壁損傷あるいは胃生検時の血管損傷にあると考えられないでもない。

(2)  しかしながら、前記二及び五1(一)で認定した事実に、〈書証番号略〉、証人有森正樹の証言並びに鑑定人渡辺豊の鑑定結果を併せ考えると、

(イ)  胃内視鏡検査実施時に出血等の偶発症が発生する頻度は0.009パーセントとごく僅かであるうえ、有森医師が使用した内視鏡は、広視野角の直視型パンエンドスコープの一種であって、内視鏡の中でもその構造上、特に胃内壁損傷を惹起しにくい機種であること、

(ロ)  アングルを固定したまま内視鏡を引き抜いたり、内視鏡の先端を見失って盲目的に動かしたりしない限り、単に内視鏡が胃内壁にぶつかっただけで大きな損傷となることはまずないとされているところ、有森医師はアングルを固定したことはなかったし、スコープ先端位置を見失うこともなかったこと、

(ハ)  胃生検時に出血等の偶発症が発生する頻度は、僅か0.008パーセントであるうえ、原告に対する胃生検は、出血の起こりにくい潰瘍瘢痕部について実施されていること、

(ニ)  胃粘膜の表面には殆んど血管が存在しないため、生検鉗子が粘膜表面の血管を傷つけることはまずなく、有森医師は、生検の際、生検部位に露出血管がないことを確認しており、同医師の使用した内視鏡の生検鉗子は、特に小型で、血管の存在する粘膜下層まで到底達しえないこと、

(ホ)  胃内視鏡検査に先立って実施された血液検査の結果によると、原告の血管凝固能は正常であったし、有森医師が採取した組織片は僅か二個で、採取後観察した結果でも、格別異常な出血傾向は認められなかったこと、

(ヘ)  日本消化器内視鏡学会は、消化器内視鏡専門医の養成・医療水準の向上等を目的として、認定医制度を設け、五年以上同学会に在籍し、所定の研修を受けたこと等の要件を満たす者について認定医の資格を、さらに認定医として五年以上内視鏡検査に従事し、一〇年以上同学会会員として研究活動を行っていること等の要件を満たす者について指導医の資格を与えているところ、有森医師は、昭和五九年当時、指導医の資格を持ち、既に内視鏡医として二〇年の経験を積んでいたこと、が認められ、これら諸点に照らすと、本件出血が胃内視鏡検査時の胃内壁損傷あるいは胃生検時の血管損傷によるものと認めることはできないというほかない。

(3)  かえって、前記二及び五1(一)で認定した事実に、鑑定人渡辺豊の鑑定結果を併せ考えると、次のとおり、原告の出血の原因は、被告の主張するように、マロリーワイス症候群によるものと推認しても不合理な点が少ない。

(イ)  マロリーワイス症候群は、嘔吐等によって腹腔内圧が急激に上昇し、噴門部近傍に裂創が発生するために出血するもので、裂創が浅く、出血量が少ないうちは、吐血とならず、胃内部に血液が貯留されて下血となる。胃内視鏡検査施行中、原告には僅かながら嘔吐反射が見られたところ、その約三時間後に最初の下血があり、その後タール便を認め、さらに吐気を催すうちに吐血を見ている。

このような原告の症状の推移は、マロリーワイス症候群の症状とよく符合するのであって、胃内視鏡検査時の嘔吐反射で浅い裂創を生じ、胃内部に血液が貯留して下血となり、その後の度重なる吐気で右裂創が拡大して吐血するに至ったと推認することもできないではない。

(ロ)  殊に、マロリーワイス症候群が発症すると、小弯側の噴門部近傍に裂創が形成されるとされているところ、出血後原告に対して実施された胃透視検査において、小弯側の噴門部直下に胃壁組織の欠損があることが確認されている。この欠損は、出血前に実施された胃透視・胃内視鏡検査の時には認められなかったもので、その部位からいって、マロリーワイス症候群の裂創である蓋然性は極めて高いといえる。さらに、マロリーワイス症候群の裂創は、浅小であるため、治癒が早く、一か月半程でその痕跡も消失することが多いのがその特徴であるとされているところ、出血の約二か月後に実施された胃内視鏡検査では、原告の胃の噴門部周辺に異常は見られず、出血直後に確認された右組織欠損の痕跡は発見されなかった。このような胃内視鏡検査結果の推移も、マロリーワイス症候群による裂創の予後とよく符合するということができる。

なお、この点に関し、〈書証番号略〉(原告が山口大学第一内科の沖田極・柳井秀雄両医師に対して行った質問に対する回答)には、原告の出血は急性胃粘膜病変によるもので、マロリーワイス症候群によるとは考えられないとする部分が存在する。しかしながら、右回答は、原告が自らその症状を簡略化して説明し、胃透視検査のコピー写真を添付して両医師の意見を求めたもので、前記認定のような原告に対する診療の経過を考慮したものではないうえ、添付された右コピー写真は不鮮明で、診断の資料として用いるには不適切なものであり、原告の出血原因の一つを否定する判断の資料とすることはできない。

(3)  まとめ

そうすると、原告の出血が胃内視鏡検査施行時の胃内壁損傷ないしは胃生検時の血管損傷に起因することを前提とする原告の主張は、その前提を欠き、採用することができない。

また、有森医師の内視鏡操作あるいは胃生検の際の手技に手落ちがあったことを窺わせる事実は認められないばかりか、かえって前記二で認定したとおり、有森医師は、アングルを固定することなく内視鏡を操作し、その先端位置を見失うこともなかったし、生検部位に露出血管がないことを確認したうえで組織を採取し、異常な出血のないことを確かめてから内視鏡を抜去しており、その間原告に激しい嘔吐反射もなく、検査は順調に進展したというのであるから、同医師の内視鏡操作及び胃生検手技に何ら適切を欠く点はなかったと推認しうる。

有森医師の過失に関する原告の主張は、いずれの点から検討しても、理由がない。

2  綿引医師の過失

原告は、次に、原告の帰院後、当直医師である綿引医師が原告に対して適切な措置を講じないで放置した過失により、貧血状態を招来して輸血を必要とする状態に陥らせた旨主張するので、以下この点について判断する。

(一)  消化管出血の治療法に関する医学上の一般的知見

前記五1(一)で認定した事実に、〈書証番号略〉、鑑定人渡辺豊の鑑定結果、証人石山和夫及び同有森正樹の各証言並びに弁論の全趣旨を併せ考えると、次の事実が認められる。

(1) 消化管出血の出血量と症状

消化管からの出血は、循環血液量の一五パーセント(七五〇ミリリットル)以内の場合には、脈拍が一一〇程度に促進することがある以外、全身状態に格別変化をもたらさない。出血量が一五ないし二〇パーセント(一二五〇ミリリットル)に達すると、血圧が九〇ないし一〇〇/六〇ないし七〇に低下し、脈拍が一〇〇ないし一二〇と多少促進するほか、蒼白・四肢冷感・倦怠・めまいや失神等の症状が現われて、軽症のショック状態を呈する。さらに出血量が二五ないし三五パーセント(一七五〇ミリリットル)に達すると、血圧が六〇ないし九〇/四〇ないし六〇まで低下し、一二〇以上の著明な頻脈や不穏・蒼白等の症状も現われて、中等度のショック状態を呈する。一般に、中等度ショックに至ると、速やかに循環血液量を回復しなければ、危険な状態に陥るとされている。

(2) 消化管出血に対する治療の概要

生体には、循環血液量の不足に対する代償機能が存在するため、少量の消化管出血においては、循環血液量は代償機能によって一応確保され、やがて造血によって正常に復する。しかしながら、急速に大量の出血を生ずると、代償機能だけでは循環血液量の不足を補い切れず、ショック状態に陥る。そのような消化管出血を生じたときは、出血によって失われた循環血液量の回復を図ることが何よりも大切とされているのであって、循環血液量が確保されてショック状態から脱した後に、出血源の究明とその治療に入ることになる。

(3) 循環血液量の確保の手段

失われた循環血液量を回復するためには、輸液・輸血によってこれを補うしかない。したがって、輸液・輸血は、患者がショック状態にあるときには、真先に実施されなければならないし、ショック状態にないときにも、循環動態の安定を得る目的で実施されることが多い。

一般に循環血液量の二〇パーセント以下の出血では、輸液のみで循環状態が落ち着くことが多いが、消化管出血の場合、出血量の判断が難しいので、早めに輸血を行うのが無難であるとされている。通常、消化管出血の際の輸液としては、ラクテックG・ハルトマン等の乳酸加リンゲル液や人血漿等の血漿製剤が用いられる。

また、患者がショック状態にあるときには、輸液・輸血と併せて酸素吸入や鎮静剤の投与が行われることも多い。酸素吸入は、大量出血による臓器の酸素欠乏に効果があり、鎮静剤の投与は患者の精神不安や興奮を除却し、安静を保つのに有効である。

(4) 出血源の検索法

前記(3)の処置によって循環動態が安定し、全身状態が改善したときには、出血源の検索が行われる。出血源の検索方法には、①問診等による病歴・現症の把握、②血液検査、③緊急内視鏡検査、④選択的血管造影、⑤消化管造影がある。

出血源の検索の手順としては、まず問診や触・視診によって患者の病歴や現症を把握し、これによって出血源を推測したうえで緊急内視鏡検査等による出血源の確認を行う。病歴や現症は、出血源を判断するうえで重要であって、特に下血の場合、その色調によって上部消化管出血であるか、又は下部消化管出血であるかがある程度推測できるため、出血部位の診断の有力な資料となる。

緊急内視鏡検査は、内視鏡によって出血源を探索する方法で、内視鏡の普及・改良に伴い、近年一般化し、医療機関の中には、消化管出血のほぼ全例について、出血後四八時間くらいの間に実施するところも現われている。緊急内視鏡検査を大量吐血中に実施すると、嘔吐によって気道を閉塞する危険があり、出血中の胃の中は凝血塊で充満して診断の困難なことが多いが、出血が治まれば出血源を比較的確実に診断することが可能である。もっとも、緊急内視鏡検査では、下部消化管出血の出血源を診断することはできない。

(5) 止血方法

消化管出血に対する止血法としては、保存的療法と手術的療法とがある。

保存的療法には、①止血剤の投与、②胃内洗浄、③内視鏡的治療法等がある。

止血剤には、ケーワン、ケイツー等の凝固促進剤、アドナ等の血管強化剤、トランサミン等の抗プラスミン剤等数種類の薬剤があるが、消化管出血の場合、これら止血剤による止血効果はあまり期待できない。

胃内洗浄は、胃にカテーテルを挿入し、生理食塩水で胃内部を洗浄する方法で、特に消化性潰瘍等による上部消化管出血に効果があり、カテーテルを連続留置すれば、出血量の把握にも役立つ。

内視鏡的治療法とは、内視鏡を用い、出血部位にエタノール等を局注したり、レーザー等を照射する等して止血する方法で、拍動性出血以外の上部消化管出血について、かなりに効果を期待できる。内視鏡的治療法は、緊急内視鏡検査の普及に伴って、近年急速に研究が進み、最近では、緊急内視鏡検査で出血源を同定できた場合に引き続いて内視鏡的治療法を実施することが多くなっている。しかしながら、昭和五九年当時には、専ら出血源検索の目的で内視鏡が用いられることの方が多く、一部の先進的医療機関では内視鏡的治療法も試みられていたものの、これを実施する医療機関も、実施症例も、少なかった。また、当時は、内視鏡的治療法を実施する場合であっても、まず止血剤や胃内洗浄を実施し、これらによって止血効果が得られないときにはじめて実施されることが多く、現在のように緊急内視鏡検査を比較的早期に実施し、引き続き、内視鏡的治療法に入る治療方法は、あまり行われていなかった。

手術的療法は、これら保存的療法によっても止血できない症例に対し、実施される。

(二)  原告の帰院時の措置と過失

前記(二4(一))のとおり、原告は、午後六時ころ、石山医師に対して下血の状況を電話連絡し、同医師の助言に従い、午後七時ころ、被告病院に戻ったが、そのころには既に石山医師は帰宅しており、午後八時三〇分ころ、看護婦に対して自宅における下血について述べ、午後九時に綿引医師によって輸液が開始されるまでの間、何の措置も受けていない。

しかしながら、前記(二4(一)ないし(三))のとおり、原告から連絡を受けた石山医師は、原告に異常があるときには連絡するよう看護婦に指示し、症状の変化に対応する態勢を調えていたことが認められるところ、原告には、午後九時ころ、少量の下血が認められたものの、自宅における二度目の下血以降、それまで四時間半もの間、また帰院時から考えても二時間もの間全く下血がなく、血圧・脈拍等バイタルサインにも格別異常が認められなかったのであるから、原告に対し、止血その他何らかの措置を直ちに講ずるべき状況にあったものとは到底いいがたい。さらに、被告病院医師らの対応についてみても、外出中の下血であったため、右医師らとしては、下血の具体的状況について全く把握していなかったところ、原告は最初の下血から五時間、二度目の下血から二時間半も経過した後になって帰院しているのであって、自ら外科開業医を営み、消化管出血に対しても相当の知識を有すると考えられる原告の右対応から、被告病院医師らにおいて、原告の下血をさほど深刻なものとは考えず、異常が現れた場合に対処できる体制を調えるにとどめたことも無理からぬというべきであって、被告病院医師らの採った右対応を不相当なものということはできない。

(三) さらに、綿引医師及び石山医師がその後に採った措置についてみるに、前記(五2(一))のとおり、消化管出血に対する止血方法として、①止血剤投与、②胃内洗浄、③内視鏡的治療法があり、また、消化管出血については、出血量の判断が難しいため、早めに輸血を行うのが無難であるとされているところ、原告に対する止血措置としては、五月一〇日午前三時五〇分に胃内洗浄・止血剤の投与が実施されたのが最初であって、結局、最後まで緊急内視鏡検査及び内視鏡的治療法は実施されなかったことが認められる。

しかしながら、消化管出血に対しては、まず循環血液量を確保するために輸液・輸血を行うべきであって、緊急内視鏡検査等の諸検査による出血源の探索は、循環動態が安定し、現症や下血の色調等による出血源の推測がついてからされるべきものとされているところ、原告は内視鏡検査の直後、自らの意思で帰宅し、最初の下血から五時間も経過した後になって帰院したため、被告病院の医師らとしては、この間の原告の症状の推移や下血の具体的状況を全く把握することができなかったのであり、原告に対し、とりあえず輸液を開始して経過を観察する措置を講じたことは相当というべきである。さらに、帰院後の原告の症状の推移をみても、原告には五月九日午後九時に少量の下血があっただけで、その後三時間以上殆んど異常が認められず、一〇日午前零時四〇分の時点において、タール便の排出により初めて出血源が上部消化管ではないかとの疑いが持たれたところ、下血の色調だけで出血部位を確定することは困難とされており、一方、右時点までにも下血があったにもかかわらず、原告の帰院後右時刻ころまでの間、血圧・脈拍等バイタルサインには格別異常が認められず、ショック症状の徴候も窺えなかったことからすると、深夜である右時点において、直ちに緊急内視鏡検査を実施して出血源を確定したうえ、止血措置を講じなければならないような切迫した状況にあったとまでいうこともできない。

また、内視鏡的治療法については、前記(五2(一))のとおり、昭和五九年当時、これを実施している医療施設も実施症例も少なく、消化管出血に対する一般的治療法として普及するには至っていなかったのであるから、原告に対してこれを実施しなかったことをもって、医師としての注意義務に違背したものということはできない。

そうすると、綿引医師及び石山医師が原告に対して採った措置についても何ら適切を欠く点はないというほかない。

したがって、綿引医師の過失に関する原告の主張は、いずれの点から検討しても、理由がない。

六以上の次第で、その余の点について判断するまでもなく、原告の本訴請求は理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官貝阿彌誠 裁判官福井章代裁判長裁判官江見弘武は、転任につき、署名捺印することができない。裁判官貝阿彌誠)

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